新着アイテム入荷情報~Vol.156
明日8/28(木)に25アイテム程、新たにアップデートします。USEDメイン+大変希少な選手支給品になりますので、すべて一点モノになります。売り切れ必至ですので、お早めにお買い求め下さい。
ブレシア 02/03(H) #10 バッジョ
言わずと知れたイタリアサッカー界の至宝・バッジョが現役時代最後に在籍したクラブ。2000年シーズンから4年に渡りいぶし銀の活躍を見せた。そして迎えた2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦を最後に引退。
この試合で83分にバッジョの途中交代を告げられると、バッジョに対してスタジアム全体からスタンディングオベーションが送られた。ブレシアの背番号10はクラブの永久欠番となっている。ちなみに、ブレシアのクラブショップでは彼の
引退後も、新しいレプリカユニフォームに#10 BAGGIOのネームナンバーが入った物が発売されている。
独自の美学を貫いたため監督と意見が合わず、幾つもチームを渡り歩くキャリアであった。しかし、守備戦術が横行するファンタジスタ受難の時代においても、バッジョのサッカーセンスはまばゆい輝きを放ち続けた。 また、優れた人格者で、人をひき寄せる魅力があり、バッジョと共にプレーするために移籍する選手もいた。
新品 チェルシー 07/08(H) フルマーキング #8 ランパード
2008年のシーズンオフにはモウリーニョ率いるインテルへの移籍が噂されたが、最終的にはチェルシー残留を選んで5年契約を結び、チェルシーでキャリアを終える意向を明らかにした。同年年4月、母親のパット・ランパードが病に倒れ、
リーグ戦を欠場して看病にあたっていたランパードだったが、24日に母は他界。その精神的なショックから、30日のチャンピオンズリーグ準決勝セカンドレグのリバプール戦を欠場するとの見方もされていたが、練習に復帰して気丈に振る舞う
とクラブ初のファイナル進出をかけた重要な一戦にも出場、見事なパフォーマンスを発揮してスルーパスでドログバの先制弾をアシストするのみならず、PKの場面ではプレッシャーのかかる中で冷静に決めた。PKを沈めた瞬間には左腕の袖下に隠していた喪章に口づけし、感極まった表情で天国の母にゴールを捧げた。チェルシーファンのみならず、世界中のフットボールファンに感動を与えたシーンだった。
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是非よろしくお願いします。
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服部 浩紀=前橋商時代から将来を渇望された大型ストライカー。高校選手権では二年連続ベスト4に導き、高校サッカー史に残る豪快なF.Kで大会通算メモリアル5,000ゴールを叩き込んだ。
その後、筑波大でも同期の藤田 俊哉(現グランパス)らと共にあらゆるタイトルを総ナメ、バルセロナ五輪予選日本代表候補に選出。Jリーグでは6クラブに在籍、通算224試合出場、33ゴールを記録した。
EURO早期敗退後、06WC世界王者を果たしたリッピ政権が復権。一部トッティ復帰待望論が湧き上がり、本人も前向きなコメントを。だが、先日発表の再就任以降最初のテストマッチの収集メンバーには入らず。
再びピッチで吼えまくって欲しい。



FIFAのお咎めを喰らい、本大会ではアンダーシャツ着用を義務付けられた希少価値の高いアイテム。日本国内でオフィシャルマーキング入りシャツの入荷は皆無。
16歳で移籍する際、イングランドやイタリアからもアプローチがあったようだが、本人がスペインサッカーに最も惹かれていたこともありスペイン行きとなった。フランスのスタイルも気に入っている模様。余談だが、初めて欧州へ移籍してきたとき間違えてスペインではなくフランスの空港に降りてしまったらしい。
14歳10ヶ月でプロデビューという、アメリカプロスポーツ史上最年少記録を持つ、ガーナ生まれのモンスター・アドゥを。


ブラジルがロナウジーニョ&ロビーニョ(※正式に辞退が決定、所属のレアルが猛反発し、それに嫌気を指した本人はいよいよチェルシーへの移籍が決定的とも)ならば、ライバル・アルゼンチンはリケルメ&メッシ(こちらもロビーニョ
人知れず願うばかり…。
レッズ・マニアの中でも1、2を争うPUMA製レースアップ・モデル。01シーズンにはブラジル流サッカーへ路線変更したものの、機能せずに結果的に失敗に終わる。第1ステージ終了後に小野 伸二がフェイエノールトへ移籍。
その後、のちの絶対的エースとなるエメルソンを獲得した。埼玉スタジアム2002でのこけら落し(10/13 vs 横浜F・マリノス)では60,553人の大観衆を集め、リーグ戦初の6万人試合となった。
EURO2008で躍進を遂げた“ミラクル・ターキー”トルコ代表の精神的支柱・アルティントップ。大会序盤こそ右サイドのディフェンシブなポジションを主戦場としていたが、チームが勝ち上がるにつれ、
世界中のファンに実力でその名をインプットさせた、数少ない選手の一人であろう。
ゲームに使いたがらないだろう。デイフェンスは決してやらない、自らゴールを狙うことはなく、ラストパスにこそ美学を求め、ストイックなこだわりさえ感じるそのプレースタイル。



で観衆を魅了した
したい気持ちがありながら、鹿島を離れ難い心境からジーコに相談。ジーコはその気持ちを察し、レオナルドの将来を考え移籍を勧めた。退団セレモ二ーでは自ら日本語で「感動をありがとう!」と涙ながらに言い残した。2005年頃、右腕に日本語で「全てに感動を」というタトゥーを入れた。「これで本当に日本とつながっている気がする」とのちに語っている。
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2002年、25歳で記念すべき地元開催の日韓W杯に出場。精神的にもチームを牽引する中心選手として、GL3試合、決勝T1試合の全試合に出場した。GLチュニジア戦では、ヘディングによる自身ワールドカップ初ゴールを記録している。
2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツW杯のGL全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントへの進出を阻まれたが、第2戦のクロアチア戦では灼熱の試合の中で抜群の運動量、
走り抜いてピッチに倒れ込んだ姿は、今まで倒れない事を信条としてきた中田とは相反するものであり、人々の記憶に残った。
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